高校野球…またそのシーズンが始まろうとしています。
私たちの関心は、甲子園に出場してきたチームにのみ注がれてしまいますが、全国参加校の4,071校中、甲子園にいけるのはたった49校しかないのです。けれど敗れ去った4,071校6万人の一人一人は、皆んなが主役。
地方大会などに行き、ゲームに敗れて号泣する選手たちの姿を見ると、私はなんだか羨やましささえ感じるのです。

青森県の八戸商業…。
昔の強豪チームも、ある時期部員を確保するのさえ大変という寂しい状態になっていました。
OBの妻神博明氏も心配はしていましたが、何しろ自分は公務員の身。回りの「ぜひ監督に」という勧めにも、「引き受けても中途半端になるから」と固辞していました。
しかし、結局、誰も監督の成り手がなく、期間限定3年間という約束で監督を引き受けることになったのです。

たった3年間の代理監督、妻神博明。9人しかいない弱小チームの監督。
その9人のメンバーも、柔道部をクビになった者など、問題児ばかり。
けれども、一人一人とのコミュニケーションの中、野球というゲームを通し「何かに対して一生懸命打ち込む事」の楽しさを、少年たちは少しずつ知り始めたのです。

その年の夏の大会。
妻神監督のキャッチャー経験を生かした「考える野球」も浸透し、この後15年以上破られることのない、《1試合最多盗塁20個》という県内記録を樹立。
また秋の大会では、地区代表をかけた決戦で、延長10回の末サヨナラ勝ち。8年ぶりの地区代表で、ついに古豪の復活を果たします。

翌年には、妻神監督を慕って優秀な1年生が多数入部してきました。
その年の夏の大会では、優勝候補の一つ「弘前工業」との対戦で、0−0で迎えた9回裏2アウトから、またも劇的なサヨナラ勝ち。
「サヨナラの八戸商業」の名を県下に知らしめ、部もどんどん大きな組織になっていきました。

そして、期限の3年が過ぎました。
事情を知らない部員たちは、「監督が辞めさせられてしまう」とショックを受け、1週間の部活拒否。学校側の説得にもガンとして、「妻神監督以外の監督なんて考えられない」と、全部員のストライキを決行します。
これを聞いた妻神氏は、学校へ出向き、「辞めないで欲しい」と泣きじゃくる少年たちの前で、静かに話し始めたのでした。


…それから13年。今はもう30歳前後になる当時の部員たち…。
彼らの結婚式には、妻神氏が仲人の時もそうでない時も、必ず、新聞の切抜きなど昔の思い出を冊子にして全員に配るのだそうです。
それを見ながら、笑ったりべそをかいたりする青年たちに、昔の少年の面影を重ねて微笑む妻神氏。
「野球という一つのスポーツが、時を経ても皆んなの心を一つにしている。そう思うと、受験地獄などで、皆で一つのことをやり遂げる楽しさを知らない子供たちは、本当に可哀想だ。」
そう呟いた妻神氏は、いまだに当時の監督の表情そのままでした。

あなたは、10年たっても20年たっても古ぼける事のない、
そんな感動の経験をお持ちですか?
 
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